シリーズ「世界はどうなっているのだろうか」!


 このシリーズ「世界はどうなっているのだろうか」は、現在、私達の住んでいる世界はどのような世界なのかを考える企画である。世界を知れば、私達が暮らしている日本のことを異なる視点で考えることが可能になる。歴史的に国内だけに妥当する考え方は、失敗する可能性も高い。

 日本における民主主義について、立憲主義について、憲法9条について、これらは現在の私達が受け継ぎ、展開し、発展させるものである。様々な分野の方にゲストに来て頂いて、一緒に考える企画である。


第25回「世界はどうなっているのだろうか」は「ペストとコロナの哲学」若山哲郎氏(民間の学者)であった。今回は何度も動画を見て、まとめた。

 

〇はじめに

今回の若山氏の講義は、カミュの小説『ペスト』と現在のコロナの状況を比較し、考察したものだった。全体としてマスコミが流している情報とは異なり、開かれた考察であったように思う。

 

〇不条理について

若山氏によると、カミュの小説『異邦人』の主人公は本人にもはっきり分からない動機、「太陽のせい」で殺人を犯し、死刑を宣告され、「異邦人」になり、追放される。彼にとっては個人として不条理に襲われたということになる。一方、『ペスト』では、オラン市の住民すべてにペストという不条理が襲う。そして、リウーやタルーなどそれぞれの個人が共感しながら、ペストと向き合って行く。ここで、不条理が個人に襲うか、集団に襲うかの違いがある。今、世界はもちろん、日本もコロナに集団として襲われている。ただ、『ペスト』の個人の生き方は参考になる。

 

〇科学的知見と誠実さ

『ペスト』の中では、日々のペスト患者の数を述べているが、カミュはその数をあまり重視していない。あくまで数人の個人がペストに対してどう考え、行動しているかを描いている。若山氏も言うように、『ペスト』では、科学的知見を中心に描いているのではない。主人公をはじめ個人の考え・行動、例えばリウーなら「誠実」に医師としての義務を果たそうと自問自答している場面などを描写している。言い換えれば、先の講義で森川氏が述べていたように、数字はあくまで状況の目安であって、目標にしてはいけないと私も思う。政治はもっと大きな目標を掲げるべきである。

 

〇安心・安全と自由や人権について

若山氏は、イタリアの哲学者、アガペンがナチスは例外状態から全体主義に進んだことを警告していることを紹介された。また、安心・安全を重視する思想が流布し、浸透すると、先制攻撃をして安全を確保する考え方に行き着くと言われた。また、青木氏は学校において自粛警察になる精神的土壌が育てられていると述べられ、ミシェル・フーコーが指摘したように学校が調教装置として働いているのではないかと問われた。

 そして、森川氏からは道徳、人権という概念は、本来、小さな集団である家族、両親が教えるべきで、学校で教えないほうがいいのではないかと述べられた。確かに本来はそうあるべきで、国家権力が個人の内面の善悪の判断までも決定しないのが、近代国家の基本原則であろう。すべての自由の基礎でもある精神の自由を守ることが、まずは第一である。


第24回「世界はどうなっているのだろうか」若山哲郎氏(民間の学者)の「コロナの哲学」であった。今回はオンラインであり、講義と対話が半々であった。私の視点から少しご紹介する。

 

〇コロナウィルスとは

私は「自然―ウィルス―生命―人間」というように自然を階層的に捉える方法を伊藤先生の講義で学んでいた。伊藤先生によるとウィルスは生物と生物の間に存在していて、人間や生物など宿主の細胞の中でしか増殖できない。また、分子生物学者によるとRNAのウィルスのほうが感染力が強いという。コロナウィルスはこの型である。

 

〇ロックダウンの意味とは

日本の場合は自粛であるが、接触を減らす意味は何だろうか?参加者の意見は二つに分けられる。①感染拡大を抑えるため。②ワクチンを開発するためや医療体制を立て直すためにする。

 

〇「自然状態」と類似?

ホッブスは「万人の万人に対する闘争」の状態において、個人は基本的に平等でそれゆえに競合状態にあると示した。人間には現在はもちろん、未来の生存を確保するために、一定の防御策を取る。しかしそれが過度に自己中心的になると「自然状態の闘争」に陥ってしまう。

 それと個人は本来、生存において自分を他者より優先するという自然権がある。この権利を一旦、政府に預ける。これがホッブスの社会契約論である。この考え方の延長線上に現在の日本国憲法もある。

 現在、コロナウィルスによって個人の生命、自由が脅かされている。この状態は「自然状態」に近い。ウィルスの蔓延を防ぐために、国民が自らの権利を信託している政府は、国民に対して自由の制限を加えている。この危機的な状況において、我々の憲法の規範から逸脱しようとする検察庁法改正案などの政府の動きは、国民の声で反対しなければならない。つまり社会契約、憲法を守らせるためにそうすべきなのだ。

 

〇人類にとってのコロナとは

外から人間に対して襲ってきたコロナウィルスに対して、人間の力では短期的にどうにもできない。そこに神的なものを感じるのではないか。この神的なことを感じるというのは、本来「人間とは何か」や「生命とは何か」という哲学的、宗教的な深い思索がなければならない。このような思索をする機会は現代では、ますます少なくなってきている。その表れに例えば、緊急事態解除のための数値目標がある。数字によって納得するというのは、人間が現在しか見ていないことになる。これではアブナイ。政治は2、3世代先を見越した社会を描き、その上で数値目標を上げるべきではないかという意見があった。


第23回「世界はどうなっているのだろうか」若山哲郎氏(民間の学者)「バッハ マタイ受難曲―イエスは今、どこに」であった。今回も私の視点から少しご紹介する。

 

〇はじめに

この講義は、京都バッハ・ゾリステンの演奏会へ行くための予習であった。(演奏会中止)若山氏から人類最高の曲だと聞いていたが、少し疑問に思っていた。しかし、今ではそうだろうと思っている。また、若山氏は合唱者としてこのコンサートの主役でもあった。このマタイの受難曲は精神性が高く、何を歌っているのかを理解していないと音楽自体が平板になる。

 

〇受難曲とは

新約聖書の福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)におけるキリストの受難を題材にした教会音楽を受難曲という。マタイの受難曲はマタイの福音書の26章、27章から成っている。ただ、復活は暗示されているだけである。全体で3時間以上あり、ソリスト、合唱とオーケストラという壮大な音楽作品である。曲は聖句、伴奏付きレチタティーヴォ(語り)、アリア(感情表現)、コラール(讃美歌)によって構成されている。

 

〇イエスの捕縛

このイエスの捕縛は聖書の記述にある。弟子が剣でイエスを捉えようとする人の耳を切り落とす。そのときイエスは「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という。この精神は暴力、戦争の否定につながり、イエスの教えの神髄でもある。これをバッハはしっかりと音楽で表現している。

 

〇ペトロの否認

福音書の中で、ユダの裏切りとペテロの否認は人間の一面を鮮烈に表現していると思う。バッハはペテロの否認を劇的に音楽で表している。ペテロは「たとえ皆があなたにつまづいても、私は決してつまずきません」とイエスに言う。しかし、イエス捕縛後、女中にとがめられると、予言通りに3回、イエスを否認してしまう。参加者のひとりはペテロに自分を重ねて聞いていたと述べた。この話は私たちの日常生活でよくあることだろう。

 

〇Erbarme dich mein Gott(憐れみ給え、わが神よ)

この曲は、多くの映画で使われている。例えば、タルコフスキー『サクリファイス』。私も講義後、何度も聴いた。特にバイオリンの出だしが素晴らしい。

 

〇参加者との対話

参加者からイエスの復活があるからこそ、キリスト教ではないのかという質問があった。若山氏によれば、最後のコラールが音楽的終止形で終わっていない。それにより聞いている我々に復活は託されているという趣旨の答えがあった。バッハは福音書の精神性を表現するためにあらゆるテクニックを使っている。


第22回「世界はどうなっているのだろうか」水口秀樹(主催者)「『アメリカ人のみた日本の死刑』(デイビッド・T・ジョンソン著)から考える」であった。

 

〇はじめに

 講義は本の内容とアメリカの死刑廃止に活躍されているシスターのヘレン・プレジェーンを紹介した。今回、死刑の勉強をしてアメリカと日本との死刑に対する姿勢の違いにショックを受けた。

 

〇世界の死刑と日本の状況

 2018年現在、世界の3分の2の国は法律上または事実上、死刑を廃止している。執行は中国、北朝鮮、イラン、イラク、サウジアラビア、アメリカ、日本である。停止している国は、韓国(1997~)、香港(1966~)である。廃止のきっかけは、独裁政権が倒れた後や左派リベラル政権が廃止した場合が多い。日本では民主党政権下での廃止ができなかった。

 日本の状況をデイビッドは次のように述べている。「死刑の運用について理想があまりに低いために、日本の最高裁の裁判官は死刑に対する考え方を変えていない。死刑を言い渡す際の条件がほとんどない日本では、そもそも現在の死刑制度への失望もなく失敗もない。そして、現状を変える必要さえないと考えている」。(p48)

 

〇日本とアメリカの死刑制度

①死刑が特別な刑罰だと見なしていない。②3人の職業裁判官と6人の裁判員による裁判は、職業裁判官1人以上を含む5対4の多数決で被告人に死刑判決がでる。

一方、アメリカの陪審評決は全員(12人)が一致しなければならない。ひとりでも反対すれば死刑判決は出ない。アメリカは死刑を特別扱いしている。死刑は被告人の人格や更生を否定し、不可逆的だからと考えられている。また、アメリカでの死刑判決の減少の理由のひとつには、絶対的終身刑制度(2000年~)がある。さらに被告人の生活史を調べる「減刑専門家」がいる。

 

〇日本の死刑の実情

 日本は1882年から絞首刑だけを採用。占領期の記録から絞首に要した時間は、平均14分15秒。これは「落下」から医師が死亡を確認するまでの時間である。アメリカの執行基準は「2分以下」で、日本はそれの5倍を超えている。これは「残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」とする憲法第36条に違反しているのではないか。

 アメリカでは死刑の執行方法を変えている。因みに電気椅子は電流を3回流す。一回目は1900ボルト、2回目は800ボルト、3回目は1900ボルト。アメリカの刑務官は執行に反対する声を挙げている。

 

〇映画「デットマン・ウォーキング」

 この映画の原作を書いたのが、シスターのヘレン・プレイジェーンである。彼女の発言で印象深い言葉を紹介する。「言葉にできないような犯罪を聞いたとき、多くの人は犯人は死刑に値すると思う。しかし、彼らは死刑執行の現場を見ない。犯人を怪物や動物だと思えば、殺すことも容易である」。しかし殺されるのは人間である。死刑制度において、日本国民は刑務官に死刑囚という人間を殺させている。人間が人間を殺すのはけっして容易ではないと思う。


第21回「世界はどうなっているだろうか」は伊藤明氏(精神科医)「「考える」を考える」であった。

 

〇はじめに

今回、伊藤先生の講義は起承転結の「結」。とりあえずひと区切りである。話は復習から数学の考え方を思考へ応用された講義であった。

 

〇うつ病と現代社会

 若い頃の「頑張れば頑張るだけ報われる」という考え方は、中年期になると修正する必要が出てくる。この修正がうまく行かないと、うつ病を発症したりする。歳をとると、身体的にも体力が落ちるし、自分の「こころのくせ」の修正を余儀なくされる状況になる。

 

 参加者との対話でも、学校教育の問題が出た。テストを返却されたとき、生徒はいつも平均点を尋ね、自分の位置を確認しようとする。彼らの精神には、テストの点数、偏差値などの基準が強固に体系化されている。そこで自分と他者を比較する。この行為をさらに大きな視点から見ると、資本主義の価値観がひとりひとりを駆り立てていると考えられる。しかし、人間はこの価値観だけを頼りに生きていくことはできない。

 

〇構造主義

 伊藤先生は橋爪大三郎氏『正しい本の読み方』(講談社)を紹介された。「構造主義の背景には、数学があるんです。いくつかその証拠はある。トポロジーとか微分幾何学の用語に、局所/全域という対があるんです。局所(ローカル)というのは、数学では、ある点の近所という意味。その点の近所で成り立つ性質をいう。全域(グローバル)というのは、集合の

全体という意味。全体の性質と近所の性質とが、違うわけですね」。(p143)

 伊藤氏の話は言うなら、局所すなわち主観的世界の思考過程の考察である。そしてこの主観的世界の思考は、意識できる世界であって、そこだけに限定された考察だと前置きされた。だから、無意識や全体(全域)は除外された。宗教は全体をも問題にするので、話題にならない。ただ、主観的世界での行き詰まりは、宗教的体験である回心と似ていると私は思った。

 

〇参加者との対話

「やればやるほど報われる」という考え方だけでは、行き詰まるという世界の構造を自覚すれば、よく生きることにつながるのですかという質問が出された。先生は「そうだと思います」と。私もそう思った。これは、ある種、世界は多様性をもつということを知ることであり、他者に寛容になる契機にもなるだろう。

 伊藤先生の講義は、理性的で意識された主観的世界の考察に限定されたゆえに、逆にそれの外に広がる世界を感じることもでき、数学的思考の幸福論のように思えた。


第20回「世界はどうなっているだろうか」は明保能徹爾氏「AIは本当に仕事を奪うのか。公務職場の現状から考える」

〇はじめに

一般に公務員が多すぎるなど言われる。しかし実際は日本の公務員の数は諸外国の中でも最低のレベルである。また、今日のテーマであるAIでの代替可能性が高いといわれる職業の代表格でもある。それでは、AIと仕事との関係について、現状はどうなっているのか。明保能氏は、公務現場の状況を述べつつ、ジャーナリストの海老原嗣生氏のレポートを紹介した。

 

〇AIで仕事はなくなるのか?

「AIの進化で仕事がなくなる」と騒がれてきた。その発端が2013年のフレイ&オズボーンの研究と2015年の野村総研のレポートである。レポートから数年が経っているが、現在はむしろ人手不足で、AIの労働代替といわれるようなことは起こっていない。ではどこが違ったのか。ひとつには、これらの研究は実際に仕事が行われる実務現場の調査を怠り、例えば実務者に直接確認するというようなことをしていなかったからだと言えるだろう。

 

〇仕事とは?

仕事が行われる現場を詳しく見ると、例えばケーキ店の店員なら、運搬や陳列、ケースを磨いたり、さらにレジ打ちなど、一人が7~10個の細かなタスクを担当して働いていることが分かる。これに対し現在のAIは、ひとつの作業に特化して自動的に習熟を遂げることしかできない。つまり、対人折衝や物理的作業はAIには不可能で、仕事にまつろう多彩なタスクを担わすことはできないのだ。一方で、コンピューターの中で完結するような業務、給与計算や社会保険業務などはAIの得意とするところと言っていいだろう。

 

〇今後、労働はすき間化するのか?

海老原氏によると、仕事にまつろう多彩な業務の中で「コア」な業務の一つか二つにAI・機械化が進むという。例えば、回転寿司なら、すしを握る、ネタをさばくという作業だけがAI化する。残りのネタを冷蔵庫から出し、パッケージを破るというような仕事を人がこなすようになる。そしてこのようなスキマ仕事ばかりを強いられた時、人はその仕事にやりがいを感じるだろうか。AIの出現により、人はより一層働くことに悩む状況に追い込まれそうである。

 

〇参加者との対話

明保能氏によると、公務の現場では、申請書などの入力作業にAIの導入が始まっているという。また、僧侶という職業の代替可能性についても議論した。ロボットがお経を読むことは今でも可能であり、場面に従って法話を述べることもできるだろう。しかしその言葉を聞いて人の心は安らぐだろうか。このように、僧侶の力量にも話がおよんだ。いずれにせよ、個の力のある僧侶は、代替されないだろう。


第19回「世界はどうなっているのだろうか」は伊藤明氏(精神科医)「多様体とファイバー束」である。今回も私の感想と視点から少しご紹介しよう。

 

〇はじめに

数学では私たちの身の回りの空間を3次元のユークリッド空間であることを講義で最初に確認した。「多様体」という概念は、現代の数学で基礎的なものであるが、最近では工学の分野などの応用の分野でも頻用されるようになっている。一般相対性理論も多様体の方法で記述しなおされているという。

 

〇多様体と世界地図

球面としての地球表面を、一枚の平面である世界地図に矛盾なく表すことはできない。例えばメルカトル図法の場合、北極と南極の二点は直線として表されてしまう。メルカトル図法に限らず、一枚の地図で地球表面全体を矛盾なく表すことはできない。だが地図を二枚(例えば北半球と南半球)にすれば、赤道で互いに重なる部分を作ることによって矛盾なく地球表面を地図で表すことができる。このように曲がった空間を、ユークリッド空間である「部分」(地図)を集め、全体を覆い尽くして、空間「全体」(地図帳)を表すようにしたのが「多様体」という装置だ。多様体とは、さまざまな図形や立体を表現する数学的な方法である。人間の感覚から考えると、私たちの身の回りではユークリッド空間であるが、宇宙全体を見ると、必ずしもユークリッド空間であるとは限らない。

 

〇「場」の概念からファイバー束へ

物理学でいう「場」とは、空間の各点に1つの値が割りふられている。例えば、天気図の気圧配置や地図の等高線など。一方、ファイバー束とは、空間の各点に1つの空間がくっついているような存在といえる。しかもその空間がねじれている場合も表現できるような存在である。

 

〇最後に

参加者との対話では、この世界をどこまで数式に換算し表現できるのかという問いを出された。そのとき事実を数式や記号に表象する。しかし、表象に換算する時に人間の感覚によって制限が加えられている。マダニなら視覚がない状態でこの世界を生きていて、ユクスキュルのいう環世界をそれぞれの生物は持っている。同様に人間には3次元の空間のゆがみを感覚では捉えられない。それぞれの生物の感覚には制限がある。しかし人間は理性という知性でそれを乗り越えている面があるが、どこへ向かうのかわからない。


第18回「世界はどうなっているのだろうか」は田村類(京都大学名誉教授)氏「複雑系科学現象---相転移が誘起するキラル対称性の破れとスピン対称性の破れ」

 

〇はじめに

複雑系の特徴として、非平衡秩序状態であるカオス状態間の相転移により、容易に「対称性の破れ」が生じることが知られている。田村氏は、「物質の相転移がキラル対称性やスピン対称性の破れ」を誘起する複雑系化学現象をはじめて発見した。

 

〇パスツールと田村類氏

三次元構造をとる立体分子には右手型(R)と左手型(S)が存在する。この性質を分子キラリティーという。パスツールが発見した結晶のパターンはコングロメラート結晶といい、R型分子だけまたはS型分子だけから成る結晶(R型結晶とS型結晶)の物理的な混合物であった。

一方、ラセミ結晶というのは、ひとつの結晶中にR型分子とS型分子が等量入っている結晶(RS型結晶)で、ラセミ化合物結晶とラセミ混晶の二種類存在する。

19世紀後半にパスツールの弟子のゲルネッツは、優先晶出法という方法でコングロメラート結晶を構成するR型結晶とS型結晶を分離することに成功した。化学調味料「味の素」は当初この方法を用いて、合成したグルタミン酸ナトリウムのコングロメラート結晶から天然型のグルタミン酸ナトリウム結晶を分離し販売していた。一方、田村氏は、ラセミ結晶の単純な結晶化により、R型分子とS型分子が自然に分離する現象を見出し「優先富化現象」と命名した。その後、この現象のメカニズムを解明し、この現象が複雑系自然光学分割現象であることを明らかにした。

 

〇参加者との対話

参加者から、田村氏にいつそのような発想が生まれたのかという質問があった。その話題から、哲学的な「直観」の話になった。どちらにしても、いつも何かを考えていないと新しい発想が沸いてこないという点で皆一致した。しかし、何をどのようにするのかという時、センスというか勘がいる。それは仏教でいう悟りにも通じるものかもしれないと私は思った。言い換えれば、いくら努力してもまったく見当はずれなところを研究しているのでは、本質にはとどかない。


第17回「世界はどうなっているのだろうか」は伊藤明氏(精神科医)の「人間の医療モデルの提示とその基礎をなす階層的自然観(2)」であった。今回も私の視点から少しご紹介したい。

 

〇はじめに

 伊藤先生の講義は、医療における人間観とその基礎となっている階層的自然観についてであった。さらに、「時間軸」と「主観の意味付けの世界」を導入して人間観を深められた。

 

〇未知の生命の階層

 生命現象の階層には、各種社会現象、集団、個体、意識現象、神経系、器官、組織、生体高分子に分けられる。この中で意識現象の階層が、まだよく分かっていない。なぜ階層に分けるのか。それはそれぞれの階層に固有な法則性があり、他の階層に還元できない現象があるからである。過去に意識現象を量子力学で説明しようとしたが、成功していない。

 

 例えば、うつ病や統合失調症に対して、神経伝達物質(セロトニンやノルアドレナリンなど)が人の気分ややる気などの精神、心理現象を支配、コントロールするといった単純化がある。しかし神経伝達物質の働きは、精神・心理状態にたしかに影響を与えはするものの、精神を支配するまでの力はないと考えるのが妥当である。この単純化は現実にそぐわない非科学的な態度である。

 

〇生物心理社会モデルに欠落している視点

 伊藤氏はこのモデルに「時間軸」と「主観の意味づけの世界」を取り入れ、人間をより深く考察された。時間軸を導入することで、人間の人生の中での発達段階における課題を明確にできる。

 子供の時代は様々な能力を獲得していく時期であるが、中年期からは、逆に様々なことを喪失し、諦めなければならない時期でもある。この喪失に対して、うまく対処するのが、この時期の課題となる。一方、喪失だけではなく、精神的には成熟し、質的によいものを求め、与えることで喜びを感じる精神にもなる時期である。

 もう一つは、「主観の意味付けの世界」である。人の知覚や思考はすべて主観的な世界の働きで、情報処理をしている。このそれぞれの主観の世界が、次の思考・感情・行動を決めている。そのため、行動や思考を予想するためには、この意味の世界を把握する必要がある。

 

〇 参加者との対話では、遺伝子還元主義とそれを認めない立場との対立となった。結局、遺伝子はなんらかの影響を身体や精神に与えるが、遺伝子だけで決定されるわけではなく、環境要因もあるし、遺伝子から上の階層には、未知の要因が数多く存在している。よって遺伝子ですべてが決まるわけではないという意見に落ち着いた。


第16回「世界はどうなっているのだろうか」は伊藤明(精神科医)氏の「人間の医療モデルとその基礎をなす階層的自然観」であった。今回も私の視点から少しご紹介したい。

 伊藤氏は大学では最初、理学部で物理を専攻され、その後医者になられた経歴があり、医者で自然科学者である。講義内容は人間の医療モデルの変遷と人間を含めた世界を階層的に見る考え方である。

 

〇医療モデル

 モデルは生物=医療モデルと生物心理社会モデルの二つがある。まず生物=医療モデルでは戦後に抗生物質や精神安定剤などの薬剤が発明されたが、投薬しても解決されない問題が多くあった。そこで1970年代後半からシステム理論の影響下から、生物心理社会モデルが唱えられるようになった。この考え方は、人間をからだ・こころ・社会の視点からそれぞれ捉えようとするものである。この三つの要素を考慮して診療にあたることになる。

 

〇うつ病に対するアプローチ

 うつ病の場合、からだ、こころ、社会のそれぞれにどのような現象が現れ、それに対する医療的アプローチがそれぞれどのようなものがあるのか、講義で紹介された。医師はある患者に何が最も効果があり、あらゆる面で適切な方策は何かを考え、決めて行くという。また、人生においてうつ的になりやすい中年期のクライシスという時期がある。これは、今まで考えてきた思考パターンを心身の老化に伴い、変更しなければならない時期である。その変更がうまく行かない人が多く出てくる時期なのである。

 

〇ストレスに弱い「こころのくせ」

 精神療法の一つとして認知・行動療法というものがあるが、伊藤氏の診察経験から独自にストレスに弱い「こころのくせ」としてまとめられている。①他人との比較競争②全か無か③「すべき」志向④悪い方向ばかりに考えてしまう⑤結論への飛躍の五つである。例えば、①では自覚していないうちに競争関係に入ってしまい、他人の成功の過大評価と自分自身への過小評価につながってしまう。偏差値による学歴社会は完全に子供社会を含めて、社会の通念になっている。ひとつの価値の序列化に対して批判的考え方をもつことが困難な場合、うつになりやすくなる。これらの5つの思考パターンはストレスに対して抵抗力が弱く、気分を暗くうつ的にさせる。気分が暗くなっているとき、このパターンにはまっていないかをチェックする。そして自覚できれば練習により、こういった考えから抜け出すことによって、ストレスに対する抵抗性を改善することができてくる。

 

〇階層的自然観について

 物理現象の階層性の基準は第一に距離(大きさ)である。特定の階層には、その階層に固有の現象が現れる。またそこでの法則性も存在する。これに加えて、伊藤氏はエネルギーレベルも考慮する必要があるとも言われた。

 生命現象の階層性とは、物理現象の高分子の階層にのみ出現する現象である。すなわち、生体高分子、組織、器官、神経系、意識現象、個体、集団、社会現象などの階層がみられる。

 社会現象としては、例えば、ミクロ経済学では物理学をモデルとして、個人というものを、経済的選考をもっぱらにする存在(ホモ・エコノミクス)として人間を「粗視化」して考えている。(これが正当であるかは、別の問題であるが。)

 

〇最後に 

先生によれば、精神科医にとって患者の自殺が最も心配なことである。自殺を予測するということは、「人間の行動は予測できるか」という問題になる。講義内容は、人類の知恵が総動員されているように私は感じた。

 


第15回「世界はどうなっているのだろうか」は田村類(京都大学名誉教授)の「複雑系科学現象―「相転移」が誘発する「対称性の破れ」であった。今回も私が少しご紹介する。

 

〇はじめに

 田村氏の講義は今回で2回目。私は今回、田村氏の研究の全体像の一端を少し理解できたように感じた。すなわち田村氏が発見したラセミ体の自然光学分割現象(「優先富化現象」と命名)は、複雑系化学現象として捉えることができる。

 

 

〇複雑系に関する主な語句(イリヤ・プリコジン)

・散逸系:不可逆な過程をもつ系

・散逸構造:力学的または電気的なエネルギーが熱に変わる不可逆(散逸)過程が起こっている系に生まれる新しい構造

・創発:非平衡構造の出現。複数の要素が組み合わさることで、要素一つ一つがもっていた性質からは予想できない新しい性質が生じること

・時間の矢:時間が反対方向に流れている物体は存在しない

・相転移:秩序(対称)の異なる状態間を急激に移り変わる現象

・カオス:決定的なルールに従っているにもかかわらず、一見ランダムなふるまいをする非線形現象

・自己組織化:非平衡系である生命はエントロピー増大の法則に従わない

 

 

〇キラリティー(chirality)とは

定義:ある物体がその鏡像と重ならない性質のこと

 歴史的には、18世紀にカントが左右の手が三次元の非対称な鏡像関係にあることに気づき、哲学的に考察したことから始まる。この左右の手の鏡像非対称性(キラリティー)の問題は、1848年パスツールによる鏡像非対称有機結晶(酒石酸塩)の発見で具体化された。パスツールは酒石酸塩の結晶には右手型と左手型があることを発見し、この結晶を構成する分子についても右手型と左手型があることを予測した。その後、ベルとファントホッフは、分子の鏡像非対称性を炭素原子の四面体構造由来であることを明らかにし、パスツールの予測が正しいことを証明した。

 また、参加者の一人の哲学者によると、カント以後、カントの問題として右手と左手の問題は哲学界にも引き継がれて行く。最近ではハイデガーやメルロポンティもこの問題を考察している。

 

 

〇生命の誕生にも関係ある?

 生命の誕生には、生体を構成する鏡像非対称性分子であるアミノ酸や糖の一方の分子(エナンチオマー)の選択と密接に関係していると考えられる。田村氏は「キラリティーをもつ炭素化合物分子の一方のエナンチオマーがなんらかの理由で選ばれ、それらの化学結合により右ラセン構造のタンパク質や核酸が合成され、ついでこれらの化学結合によって自身の複製を作ることのできるDNAやRNAが形成された。したがって生命が存在するのは、炭素化合物がキラリティーを有する所以であるとさえ言える」。

 このことから、生命の起源は、一対のエナンチオマー間のバランスが崩れたという事実なのだろうか。この点については、いまだ謎が多く、今日でも多くの科学者がこの問題を追究している。


第14回「世界はどうなっているのだろうか」は若山哲郎氏(民間の学者)「印度旅行記」であった。今回も私の視点で少しご紹介したい。

 

〇インドの町そして政治

 若山氏の訪問地のひとつがコルカタ。このコルカタ(カルカッタ)は1858年から独立の1947年まで約1世紀間、イギリスの植民地時代の首都であった。それ以前では1690年に東インド会社がすでにここを拠点としていた。

 インドは世界で最大の民主主義国家と言われたりする。複数政党制や自由選挙制からすればそうかもしれない。しかし、ロシアも複数の政党がある。それにインドは若年層の割合が高く、今から発展しそうなエネルギーを感じたという。ちなみに「国境なき記者団」の報道自由ランキングでは、インドは138位、ロシアは148位、日本は67位である。現在のインド政府は、過激なヒンズー至上主義の流れを含むインド人民党である。

 

〇仏教について

 今回、若山氏はブッタの聖地のうち、ブッタガヤとサールナートへ行かれた。ブッタガヤは悟りの地であり、サールナートは初転法輪(初めての説教)の地である。釈尊はセーナー村の娘スジャータから乳粥の供養を受けて、ブッタガヤで悟る。現在はスジャータ村になっている。ここは2500年前とあまり変わっていないと言う。ブッタガヤでは菩提樹を中心にお寺が建っている。

 サールナートは現在、遺跡公園になっている。この地には鹿が多くいたという。近くには考古学博物館があり、アショーカ王柱が所蔵されている。仏教寺院はスリランカ様式の建物。最近、施設内へ入る時にボディチェックが厳しい。2013年のブッタガヤ爆弾テロ事件のせいだろうと。ここインドでもイスラム教と仏教との対立が起こっている。

 

〇哲学について

 インドにアーリア人がもたらした支配原理としてのヴェーダ哲学は、ウパニシャッド哲学を生んだ。それに対抗したひとつに仏教がある。このヴェーダ哲学には大きく二つの立場、「実在論」と「唯名論」がある。若山氏によると、実在論のヴァイシェーシカ学派は西欧でいう原子論に似ているという。どちらにしても、インドには主観と客観が分離した二元論ではない世界観がある。例えば『マハーバーラタ』の一部である『バガヴァッド・ギーター』には、二元論を捨て、「行為」を「知」より上に置く話がある。若山氏は旅行を通して、現在の地球規模での危機を救うヒントになるかもしれないような印象をもたれたという。

 参加者との対話では、素粒子ができる前の世界では、唯名論の考え方に近いのではないかという面白い指摘もあった。

 


第13回「世界はどうなっているのだろうか」は京都大学名誉教授田村類氏「科学のパラダイムシフトと複雑系理論」であった。今回も私の視点からまとめたものをご紹介する。

 

〇はじめに

田村氏は院生の頃に「将来は仏教哲学と化学が結びつくような研究領域を開拓できないものかと漠然と考えた」と述べた。物理学や生物学の分野では当然のように観察される非平衡・非線形複雑系現象が、化学の分野では化学平衡が優先するため、極低温や高圧などの極限状態でもない限り観察は難しいと考えられていた。しかし、田村氏は化学分野においても通常の温和な条件下で非平衡複雑系現象が起こりうることを示した。

 また、田村氏は、画家の葛飾北斎やクロード・モネと自然科学者のルイ・パスツールの美意識や宇宙観に触れて、「自然科学と芸術は求めるものが同じかもしれないと思うようになった」と述べている。

 

〇科学のパラダイムシフト

大きな発見として17世紀前半にデカルトが二次元座標を考え出し、これ以後、理性的な計算が可能となった。ついで、ニュートン力学、20世紀前半のアインシュタインの相対性理論、ミクロの世界を探究する量子論の誕生、さらに20世紀末になって複雑系理論へと発展した。特に、相対性理論、量子論、複雑系理論の要素はインド哲学の世界観に含まれており、田村氏はインド哲学の世界観と科学が追求して明らかにしてきた世界観の類似性に関心をもった。

 

〇複雑系

定義:複数の要素からなる系では、各要素が各自のルールでふるまうが、各要素間には相互作用が働く。これらの要素からなる系は、全体としてあるふるまいをする。逆に、系全体のふるまいは、各要素のルール、そして要素間の相互作用にも影響を与える。このような系を、複雑系と呼ぶ。生物自身、社会そのもの。(田村氏のプリントから引用)

 

〇相転移と地球環境

地球の平均気温が温暖化のために産業革命以前より2度以上上昇すれば、地球環境は不可逆的な相転移が起り、過酷な原始地球に近い状態になる可能性がある。


第12回「世界はどうなっているのだろうか」水口秀樹の「『ポピュリズムとは何か』(岩波書店)ヤン・ヴェルナー・ミュラーに学ぶ①」

 

〇はじめに

 ポピュリズムについては訳者の板橋拓己氏によれば、共通了解はないという。しかし、この本を読むと共通の特徴があることがわかる。同時にミュラーの考えで日本の政治を見れば、明らかにポピュリズムの特徴と合致している。この「ポピュリズム」という言葉が頻繁に登場したのが、2016年である。この年はアメリカ大統領選のキャンペーン中で、共和党のトランプ、民主党のバーニー・サンダースもポピュリストと呼ばれていた。そして、英国のEU離脱もこの年であった。しかし、右派と左派をごた混ぜにして、ポピュリズムを考えるのは政治的判断としては失敗ではないかと、ミュラーは考える。ここではミュラーの考えるポピュリズムを少しご紹介する。

 

〇だれがポピュリストなのか?

 どんな種類の政治活動がポピュリストと見なされるのか。①エリート批判(必要条件であるが、十分条件ではない)。②反多元主義(言うなら多様性の否定である)。トルコのエルドアン大統領は「我々が人民である。お前たちは誰だ?」といった。ポピュリストは政治的な競争相手を非道徳的で腐敗したエリートとして描く。トランプ「ただ、ひとつ重要なことは、人民の統一である。なぜなら、他の人々などどうでもよいからだ」といった。

 ポピュリストは人民の一部が人民そのものと主張する。そしてポピュリストだけが、この本当の、あるいは真の人民を正しく発見し、代表していると主張する。ポピュリストは、道徳的な者と非道徳的な者、純粋な者と腐敗した者、これらを区別するような様々な基準を用いて、政治の道徳的な概念化を進めている。

 

〇ポピュリストによる統治は3つの特徴を示す

 ①国家機構を乗っ取る。日本なら人事局で掌握している。②腐敗や「大衆恩顧主義」(市民や官僚の支持に対して、えこひいきする)。森友・加計など③市民社会を組織的に抑圧。市民活動に対する嫌がらせや集団ストーカーという組織犯罪も該当するか。

 ミュラーはポピュリズムを民主主義にとっての脅威として考えている。ポピュリズムは民主主義の最高次の理想(人民に統治させよ)の履行を約束する、民主主義の堕落した形態であるという。

 

〇民主主義の特徴

ポピュリズムは代表民主主義の導入とともに出現する。だから、ポピュリズムを適切に把握することは、民主主義についての我々の理解を深めるのに役立つ。例えば、英国のEU離脱には保守党の協力が不可欠だったし、トランプが大統領になるためには、共和党の力が必要であった。ポピュリストや極端な政党だけに注意を払い過ぎないことも重要である。特に保守政治家がポピュリストに協力しようとしているかどうかを、監視する必要がある。日本の政治の場合、保守党だけの監視だけでは足りない面があると思う。


 第11回「世界はどうなっているのだろうか」は藤田英実香氏(修士論文発表)「古代ロシアにおける遊牧民ポロヴェツ人の史料上イメージと現実」である。今回も私の関心からまとめた。

 

〇はじめに

彼女が生まれたのが1992年、ソ連崩壊の翌年である。小学生の頃、授業でチェルノブイリ原発事故のドキュメンタリーを見ている。そのことがロシア、ウクライナ、そしてベラルーシ、すなわち東スラブ諸国家との出会いとなり、彼女の学問の方向を決定した。

 

〇ルーシについて

古い時代の「ロシア」は「ルーシ」といい、今日のウクライナの首都であるキエフが中心であった。彼女によれば、この東スラブ地域のルーシはロシア史の一部なのか、ヨーロッパ史の一部なのか議論があるそうだ。彼女の論文の中心は、東スラブ地域にいた遊牧民ポロヴェツ(キプチャク)とルーシについてである。ルーシの文字記述は9世紀まで存在せず、988年ウラジーミル大公がギリシア正教を導入した後、「年代記記述」の記述が最初である。

 

〇史料の分析

先行研究を踏まえて、彼女はより具体的に史料を読むため、どのような形容詞がどう使用されているかを、ルーシとポロヴェツの関係から考察している。「異教徒の」、「異民族の」、「原野の」の3つの形容詞を分析。「前二者については他の民族のように同じ一貫した条件で形容語は用いられていること、「原野の」に関しては同盟ポロヴェツを一貫して指すことが分かった。先行研究で自明のこととされてきた「敵意」やネガティブな見方よりもむしろ、ポロヴェツ「表象」に関して年代記記者は全体的に淡々とした態度を取っており、他の民族とは区別なく描くように努めている」と言う。

 

〇年代記以外の史料から考える

「修道士ニコン」と「ミュラの聖ニコライ」の二つの史料からは、ルーシとポロヴェツの間には身代金制度があり、法制度の相互利用があったことが分かる。そして、どちらの話も異教徒であるポロヴェツを改心させたことを褒めたたえている。

 

〇まとめ

彼女は最後に歴史家としてひとことを述べた。「権力者(ここでは教会エリート)が情報を統制し、我田引水的な政治を行おうとするのは、いつの世も共通している。(中略)古代中世の人々が幸いであったことは、おそらく本研究で使われた史料を記した人たちは、「純真で素朴な悪意」を以て異端者を排斥しようとしていたことである。それにくらべて現代は・・・」。


 

 第10回「世界はどうなっているのだろうか」は関西大学の井谷聡子氏に「オリンピックをクリティカルに読む」と題してお話しをして頂いた。先生はアメリカとカナダで勉強され、ご専門は身体文化論とスポーツ社会学。

 

 

 

〇オリンピックのイメージと実像

 

 オリンピックのイメージとして参加者からは、商業的な面と平和の祭典という点、そして、人間の身体の限界への憧れが挙がった。事実は古代オリンピックと近代オリンピックとでは異なる。古代オリンピックではアマチュアイムズがあり、国家の代表が競い合うのではなく、地域やクラブの代表が出場していたし、男性だけだった。そして戦争を止めたこともあったと言われている。一方、近代オリンピックは1896年のアテネから始まり、パリ大会から女性が参加し、ナチス下のベルリンオリンピック(1936)から、国旗の掲揚や国歌斉唱、セントルイス大会(1904)からメダルの授与が始まった。ベルリンでは特にアーリア人の優越さを示そうとする民族主義が現れている。この時、三段跳びで田島直人選手が3位に入る。

 

 70、80年代から大企業のスポンサーが介入し、オリンピックがメガイベントになってくる。この手法はローマ帝国下での愚民政策、いわゆる「パンとサーカス」としてオリンピックが政治的に利用されていると考えられる。つまり、人々の目を政治ではなく、気晴らしや興奮するイベントに集中させて、政治を進めるやり方である。

 

 

 

〇オリンピック開催について

 

 先生のお話しで驚いたことは、1964年の東京オリンピックの時に立ち退きを強いられた人が、今回の2020年でも立ち退きを強いられているという事実である。なぜなのか。ひとつは、貧しく力のない人々がいつも犠牲になっていること。例えば、北京オリンピックの時は、およそ150万人の人々が移動させられたという。このような現象は世界で発生している。バンクーバーではカナダ先住民、ロンドンでも貧しい地区での追い出しがあった。特にリオ・デ・ジェネイロのスラムであるファヴェーラでは、驚くような人数の黒人が軍警察により殺されている。

 

 

 

 ロンドンオリンピックではテロ対策ためにミサイルが配備されたし、2020年の東京ではテロ対策のために共謀罪が施行されようとしている。また、セキュリティ対策としてイスラエルと協力する。その費用が莫大であり、その技術はおそらく軍にも応用が可能であろう。また、ソチのパラリンピック開催期間中に、ロシアはウクライナへ軍事介入している。この例などは、まさに戦争するためにオリンピックを利用している例である。このような事実を知り記憶することが、ひとつの抵抗運動になると先生は言われたことが印象的であった。

 

 どこのオリンピックでも、国内問題より、オリンピックのための施設や道路の開発を優先している。このことをGentrification(ジェントリフィケーション)という。また、特徴的なことは、公園などの公的なものがオリンピックのために壊されて、そのあとは民間の企業が開発するという事例が多い。この現象も世界的である。オリンピックの華やかな面しか報道されないが、背後では立ち退きをはじめ、理不尽な暴力がある。このことは知っておくべきことであるし、それが平和への第一歩になると思った。

 


第9回「世界はどうなっているのだろうか」は同志社大学の森宣雄さんに来て頂いた。講義は「歌でまなぶ♪戦後沖縄民衆史」。今回は先生のリードで歌をうたい、声に出して、こころと体で沖縄をまなぶ講座であり、いつもより長時間であった。いつものように私の視点から少しご紹介しよう。さらに興味のある方は森宣雄さんの『沖縄戦後民衆史』(岩波現代全書)を読んでください。

 

まずは現在の沖縄を視る。米軍属事件に対する沖縄県民大会(童神)や沖縄慰霊の日の集会(月桃)においても、集会は歌で始めて、歌で終わる。これは沖縄社会が歌によって、考え方や知恵を育み、伝えてきたことの表れだからだろう。森先生によれば、沖縄は歌をうたう機会が多く、家族で毎晩のようにうたうという。このような習慣は本土にあるだろうか。「歌が盛んなのは、それが物語だからです。記録だからです。一人一人みんなの歴史だからです」(照屋林助)。

 

◎沖縄の宗教観ー「童神~天の子守歌」(1997)

参加者の中に沖縄出身の女性がおられ、本場の歌声を聞くことができた。この「童神~天の子守歌」という題からもわかるように、子供を歌っている。「子どもは天の恵み。太陽と月の光をうけて育つ。ときに嵐の吹く浮き世は、母の祈り・人の情けをうけて渡る。恵みのいのちを思って身を犠牲にして守る母や姉妹の霊力をうたった歌」。

 この歌の背景には「女が霊力をうけて、神のようになる宗教観」があり、娘が大人(霊力の高い人)になって、男の兄弟を守るという考え方がある。この考え方は、沖縄に古くからあり、古代、公私すべての祭祀・宗教行事が女性中心であった。この伝統は現在でも沖縄に生きていると私は思った。

 

◎米軍統治時代

「艦砲ぬ喰えー残さ」(1975)は現在の代表的反戦歌。「我親喰わたるあの戦。我島喰わたるあの艦砲。生まれて変わても忘らりゆみ。誰があの様しいいんじゃちゃら(し始めたか)恨でん悔やでん飽きざらん。子孫末代いぐん(遺言)さな。うんじゅん我んにん、汝ん我んにん(あなたも私も)艦砲の喰い残さ」。

 沖縄戦で生き残った人々を「艦砲の喰い残さ」と表現している。また、50、60年代のコザの風景をうたう「時代の流れ」にも、「自嘲ぎみのユーモア」があり、間接的に現状を批評している。しかも、男性から見た「解放された女性のバイタリティー」をうたっている。

 

◎復帰後:歌に表現された情・歴史・自然

戦後すぐの時、生き抜く支えは人情・恋・自然の恵みであったが、それがしだいに情・歴史・自然へと洗練していく。

 

沖縄観光のバスガイドさんに歌いつがれた「タンポポ」(1970)。政治に挫折しても、あきらめずに自然(タンポポ)に対して平和への願いを託す。「米兵に踏まれても それでも花を咲かそうとタンポポ 強く生き抜くタンポポを 金網のない平和な 緑の沖縄 みんなの願いを込めて 咲かせてやりたい」。

 

BEGIN「島人ぬ宝」(2002)は私も知っていた。目には見えない誇りや想いこそが宝である。「教科書に書いてある事だけじゃわからない 大切な物がきっとここにあるはず」。「テレビでは映せないラジオでも流せない 大切な物がきっとここにあるはずさ」。

 

森先生が「沖縄には自信がある」といわれた。おそらく、時代とともに移り行くものではない、目には見えない誇りや想いが、歌によって受け継がれているからなのだろう。そしてその伝統はうまく沖縄の民主主義の精神にも流れているように思える。 

 


第8回「世界はどうなっているのだろうか」、「現代日本人の恋愛力を問う」実践篇。講師は前回と同様に*楓さん。実践篇ということもあり、楓氏の経験、見聞そして見識からの講義であった。私の興味と関心から少しご紹介しよう。

 

◎まず、実例が挙げられた。男性に多いパターンとして、アプローチの失敗例。例えば、女性の部屋に上がり込み、2連泊した男性。この男性は女性が断れないところにつけ込み、同衾を試みるが、女性にその本心を見抜かれ、破綻する。楓氏の批評では、男性のアプローチの加減を失敗した例。

 もうひとつは、女性に多いパターンとして、「駄目な男と知っているけれど」の場合。彼女がいる男性に告白して、第2夫人のようになってしまう例。このとき、男性は「お前と今の彼女を比べて、いいと思った方を取るつもり。モテ男はつらいね」と発言したとか、しないとか。楓氏の批評では、自尊心の低い女性は、ナンパを断れないところがあるというご指摘。

 

◎次に実践篇ゆえに、楓氏作成の「恋愛力診断」をテストした。①自分の容姿②自信のレベル③これまでの恋愛、この3点から調べ、それぞれを点数化する。そしてその相関関係から診断をするというもの。ちなみに、私は自己過大評価タイプとなった(笑)。このテストの目的は、まず「自分を知ること」で恋愛ダメ病を予防することにある。まとめとして楓氏は「重要なことは、ご自身の魅力レベルを適切に把握し、それに見合ったアプローチをすることです」と述べられる。

 

◎楓氏の経験からの考察。「早生まれの一人っ子で女」は苦労するという仮説。「特に人格形成期である小学生以前に強く作用する「生まれ月」の問題と、恋愛傾向とは何らかの関連がある」と。楓氏は3月生まれで、一人っ子なのである。

 

 その後、楓氏の個人的な経験が話題になり、それに対するカフェの店長のコメントが的確であった。

「楓先生、よくぞご無事で、よくぞご無事で」。


第7回「世界はどうなっているのだろうか」は、*楓(アスタリスクかえで)氏による講義「現代日本人の恋愛力を問う!」論理篇である。ここでは私が関心をもったところを中心に少しご紹介しよう。

 

楓氏がまず取り上げたのは、婚活、すなわち「結婚するためにする活動」についてである。Youtubeには結婚相談所が配信している動画があり、「カンタン!稼げる男性かを見分ける方法!」などという文言が踊っているという。楓氏によると「婚活という場は、男性なら年収で、女性なら年齢(容姿も重要)で異性から「査定を受ける場」となっている」。なぜこのような現象が発生しているのか、楓氏の論点の一部をご紹介しょう。

 

①私たちが恋愛から遠い理由

まず厚生労働白書の統計から、言えることがある。それは結婚に対する意識が変化していること。結婚を「するべき」と考えている人の割合が35%、「しなくてもいい」が59.6%になっている(2008)。また、恋愛結婚が9割近い割合になっている(2005~2009)。

それではどうして恋愛離れしたのか。楓氏は5つの理由を挙げている。①リアル(3次元)離れ②経済的理由③ネット文化④家族関係⑤精神疾患。これらが複合的になって恋愛離れしている。①はネットによって、アイドルやアニメ、さらにアダルト動画に接することが容易になり、そこで満足を得てしまう。③はネット掲示板において、異性批判などを読み、影響されてしまうこと。④は機能不全家庭で育つことからくる、人間関係がうまくつくれないこと。

 

②理想の恋愛とは?

現状では「交際」と「結婚」が直結しなくなり、友人だけれども性交渉があったり、交際しているが、手もつないだことがない関係もある。私見では後者は、どちらかの妄想だと思うが、それがネットにより拡散して「交際」していると一時的やまわりが思う場合がある。また、LGBTやモノガミー・ポリアモリーという形態もあり、多様化している。ただ、LGBTとポリアモリー(同時に複数人と付き合う形態)などとでは、質的に異なる面があると私は思う。

 

③女性の精神的な性成熟の困難さについて

まず神話から説明される。旧約の「イザヤ書」に登場するリリスが象徴的である。彼女はアダムの最初の妻になるべき女性であったが、アダムとの逢瀬で「下になりたくない」と主張し、破局したという説がある。日本の『古事記』や『日本書紀』にも男女関係で同様な神話がある。つまり「女性は誘われるもの、性行為の際には下になるべき受身的なものという感覚があった」と楓氏はいう。このことが深く女性の性成熟を難しくしている。

 

同時に現代では、エロ本・AV・風俗業などが日常的にあふれているし、そこに初めて触れた少女の中には「男性との性的接触をする可能性」から遠ざかる時期がある。いうなら、同性への疑似恋愛のときである。

 

また、ナンシー・チョドロウの対象関係理論の考え方を紹介してくれた。それは女性は母親と同じ性であるゆえに、容易に自分のアイデンティティーを認識でき、そこで安定してしまう傾向があるという。そのために異性愛形成が難しくなる。

 

私が最も興味深かったことは、女性は男性との相性において、男性の匂いなど感覚的なことにより敏感であるという意見である。

 


第6回「世界はどうなっているのだろうか」。今回は実際に体験する企画。講師はアンジュール桃の木の店主、竹下外茂樹氏。彼はパン技術士、1級パン製造技術士であり、20年以上にわたりパンと関わって来られている。講義「原材料の説明、小麦・パン酵母など」。私の視点から少しご紹介しよう。

 

①クロワッサンの整形

用意された生地を使い、参加者は生地を伸ばし、形を作る作業をした。三つ折りを三回折ることで、27層になった生地を三カ月型になるようにした。私は生地を伸ばす時、伸ばし過ぎて、切ってしまい、失敗した。このクロワッサンの三カ月の形状は、トルコの旗からきているという逸話もある。パンの形状ひとつだけでも、歴史がある。

 

②フランスパンの整形

フランスでは、フランスパンの価格をフランス政府が決めている。これは日本政府が主食であるコメの値段を決めているのと同じだ。フランスパンは小麦、水、塩、イーストから成り、油脂などといった他のものが入っていない。それだけに材料の質が反映されやすい。竹下氏によれば、フランス産の小麦を使ったフランスパンが最もおいしいという。

 

③パンの原材料

小麦には、国産と輸入ものがある。国産の小麦はグルテンが少なく、うどんに適している。しかし、最近、北海道などではパンに合う小麦も生産されている。現在、関税により国産と輸入ものの価格はバランスが取られている。しかし、自由化すると、状況が変わるだろうと竹下氏は言われた。

 

アンジュール桃の木では、主にカナダとアメリカ産の小麦を使用し、パンを製造されている。どこの店も小麦を数種類、ブレンドして店の味を出している。ブレンドによって、味や見た目が変わる。ここにパン屋の個性と技術が現れてくる。

 

まとめ

私はパンを製造するという工程を少し体験した。知識と技術がひとりのパン技術士の中で統一され、毎日、パンが作られている。「発酵時間が長いと老化はおそい」という竹下氏の発言からも、自然から頂いた小麦を人間生活にうまく適用してきた長い歴史があることを感じる。このことは一言でいえば文化であるが、日本でのパンを食べる習慣が完全に定着していることを思わせた。職人の頭と手には世界からの知識と工夫が利用されている。熟練した人と素人との差は歴然としていて、そこに新鮮さと笑いがあった。

 

 


第5回「世界はどうなっているのだろうか」のゲストは、京大農学部の岡田直紀氏です。ご専門は森林科学。講義は「私たちはどれだけ貧しさを受け入れることができるのか」。ここでは私が興味深く思ったところを少しご紹介しよう。


①最終収量一定の法則

私が面白く先見性があると思った考え方が、この最終収量一定の法則である。この考えを述べた吉良竜夫氏は、岡田先生の先輩である。吉良氏が戦後、研究費が少ない状況下、1平方メートルあたりに、ダイズを異なる密度で植え、そしてその平均個体重を調べた。時間が経過しても、結局のところある一定の収量を超えないことを科学的に証明された。つまり、ある条件下、まばらに植えても、密植しても、収量には限界があり、その限界は一定なのである。これを最終収量一定の法則という。

 

②植物個体群の研究が示唆するもの

サワグルミは風で種子が散布され、しばしば一斉同齢林をつくるが、ミズキは動物が種子散布をし、林内に単木で生える。このように樹木は様々な方法で生きているが、どのような条件下でも、最終的には環境収容力が生物量を規定しているといえる。概して、個体密度が高いと、成長とともに個体数の減少(自然間引き)が起こる。

 樹木にとって、個体レベルでは成長過程において、いかに光を獲得するかが大きな問題になる。枝を伸ばすための空間のとり合いが起こる。つまり、空間は資源なのである。様々な環境の、それぞれの利用可能な資源量によって、個体や器官の成長、形態を制約してしまうのである。

 

③持続可能な開発
上の言葉は「環境と開発に関する世界委員会」(1987)の報告書からきていて、定義がある。「将来の世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすような開発」。先生によれば、地球上の資源の量は有限であるので、言葉本来の意味において持続可能な開発をし続けることは科学的には不可能だと言われた。この予測は吉良氏の最終収量一定の法則を適用すれば理解できる。ある調査では、1970年代にすでに地球の環境収容力を人間の資源利用が超えてしまっている。要するに、地球の資源は人間の欲望によって枯渇されようとしている。

 この状態が永続することは不可能であり、どうしても持続可能な開発をするのであれば、資源利用を抑えなければならない。つまり「私たちはどれだけ貧しさを受け入れることができるのか」という問いに直面する。

 


私の講義は「環境と文化について」。岡田先生が科学的なのに対して、私の話は思想的、文学的なものである。中心は和辻哲郎著『風土』を参考にして、私たちの精神について考えるために、講義を行った。少しご紹介しよう。

 

①まず「風土」を和辻はどう考えたのか。(『風土』は昭和3年から昭和4年までの講義をまとめたもの)

和辻はハイデガーの「有と時間」を読む中で、空間性(ハイデガーが重視していないがゆえ)という認識を再認識したと述べている。風土についても様々に述べられているが、私の理解では「風土とは単なる自然環境ではなく、その中で人間が長く歴史的に、主体的に関わってくることで、精神的に刻み込まれた自己了解の仕方である」。和辻は「風土の型が自己了解の型である」と端的に言う。ここから、日本のようなモンスーンの風土なら、日本人をその特性として受容的・忍従的にするという。

 

②日本家屋の様式はいかに作られたか。

モンスーンの風土の特徴は、暑熱と湿気である。家屋の場合、いかに湿気を扱うかが問題になる。そのために建築材料が木材、紙、泥。また、家族を最も重視している風土は、モンスーンの風土であり、特に中国、日本が該当する。

 例えば、言語において、「うち」と「そと」という言葉を使う。家を「うち」として、世間を「そと」とする。このうち・そととは、そのまま日本人の在り方を表しているだろう。

 

③ヨーロッパとの比較

日本ではいったん家屋へ入れば、「へだてなき結合」の状態になる。ふすま・障子で仕切られているが、相互の信頼の上で成り立っている。つまり、ヨーロッパのような個々の部屋の区別はない。

 日本家屋では、玄関で靴を脱ぎ、それによってうちとそとを区別する。一方、ヨーロッパの家の内部では、個々の部屋は独立していて、鍵がある。家族ひとりひとりは、家の食堂へ行く時と、街のカフェへ行く時の意識は同じである。つまり、自分の部屋の外は社会なのである。家の中の廊下も家の外のアスファルトの道も、同じように扱う。この意識はヨーロッパのポリス社会から来ていると和辻はいう。そして社会に対する公共性が、日本より高い。

 日本では、自分の家の庭は大切にするが、公園が汚れていても気にならない。すなわち、外と考えると、どうでもよく関心がなくなる傾向が強い。これはデモクラシーと大いに関係がある。

 


第4回「世界はどうなっているのだろうか」のゲストは、京大教授の髙山佳奈子さんです。先生のご専門は刑法。講義は「ナチス犯罪と国際刑事法」。題名どおり、内容も濃密でした。ここでは、すべてをご紹介できないので、私の感想とともに関心のあるものを取り上げます。

①はじめに

 自民党の議員の発言を先生が紹介されました。例えば、稲田氏「国民の生活が大事などという政治は間違っている、国のために命を投げ出すべき」。長勢元法相「国民主権、基本的人権、平和主義を廃止してこそ自主憲法」。彼らのめざす国家像は、専制国家なのだろうか。

 

②「戦争犯罪」とは

 国際刑事裁判所は国際刑事裁判所規程に基づいて設立されている。日常用語の「戦争犯罪」は、国際法では「中核犯罪」と呼ばれ、4つの類型を含んでいる。

 

○侵略の罪:戦争を始める罪。東京裁判で訴追された。

○ジェノサイド:ナチスが進めた大量虐殺などの罪。殺害以外の加害も含む。

○戦争犯罪:捕虜の扱いなどのルールに反する罪。昔からある。

○人道に対する罪:ジュネーブ条約に反してなされる、市民に対する非人道的な扱い。

 

 日本は第1次安部内閣の時、国際刑事裁判所に参加し、最大財源拠出国である。ただ、日本はジェノサイド条約に不参加である。そのためなのか、最近できたヘイトスピーチ規制法は、国際的に不十分だと見られる可能性が高い。

 

③ドイツにおける「過去の克服」

 ニュルンベルク裁判、東京裁判、旧ユーゴスラビア・ルワンダ国際刑事法廷をへて、国際刑事裁判所規程に発展している。ただ、先生によれば、広島・長崎への原爆による市民への大量虐殺は、当時の国際法でも違法である。しかし、大国の意向でまだ訴追がうまくできないらしい。

 

 ドイツ刑法では、ナチス政権下での命令に従った行為が、戦後に処罰されている。例えば、「密告者の処罰」。「反体制的言動」をなした同居人を密告した被告人を、戦後に「人道に対する罪」で起訴し、有罪。ナチス政権下で、その命令を拒否できたかどうかは、問題ではあるが、ラートブルフ公式という指針を適用している。

 

④近年の状況

 「アウシュビッツの嘘」事件。ナチスを賛美する表現活動は、日本では可能であるが、ドイツでは犯罪となる。この事件は、オーストラリアでインターネットに「適法」な主張を掲載したドイツ人が、ドイツに入国後、ドイツ法を適用されて有罪となる。

 

 国際刑事裁判所の権限は、まだ小さいが、この裁判所が犯罪に対してある程度の共通な規範を使い、裁くことができる世界になりつつある。これは世界政府への一歩だと、私は思う。

 


  私の講義「夏目漱石の個人主義と自民党改憲草案の「人」」については、選挙前ということもあり、現憲法を補足的に補う形で漱石の個人主義を述べるにとどめた。なにより、自民党改憲草案の考え方の背景を含めて、解説してみた。

 まず、漱石の視点には、江戸時代からの伝統と明治維新からの西欧化と対立があり、当時の社会全体は技術を中心に西欧化を目指していた。一方、現在は近代憲法の最高の思想を体系化している現憲法と江戸時代か、それとも戦前の世界観をもつ自民党改憲草案との対立になっている。当日は、「自由」についても述べたが、ここでは二点だけを取り上げる。

 

①自民党の草案は「天賦人権説」をやめるのか?

 

 自民党のサイトのQ&A14で、西欧の天賦人権説を改めるとはっきり述べている。天賦人権説とは、国家や集団に条件付けられる前に、人は生まれながらにして、人として尊重される権利をもつという考え方。現憲法の第13条には「すべての国民は、個人として尊重される」とある。個人とは人より、より具体的な個性を持った個人を尊重するという意味であろう。近代市民社会は、それぞれ個性をもった個人が活躍できる社会であり、そのような社会を現憲法も目指している。

 一方、草案の第13条には、「全て国民は、人として尊重される」。個人ではなく、「人」として尊重するとは、どのようなことだろうか。天賦人権説とは違う考え方から推測すると、国が与える「人」の権利だろう。つまり、「人」の権利は国が決めるという、国家主義である。

 

②漱石と現憲法は「個人」を基礎に家族、国家を考えている。草案は「家族」を中心に考えている。

 

 草案の第24条には「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない」。家族を尊重する考え方が強調された時期に、戦中の1937年に刊行された『臣民の道』という本がある。この本に書かれている思想が草案の背景にあるのかもしれない。例えば、「国即家」、「家族国家」そして「八紘一宇」などの用語が使用されている。これらの用語の意味は、日本はひとつの家族であり、それが国家であるということ。国は家族である。つまり、国家主義である。草案の前文を読んでも、国家を基本的人権より重視しているように読める。たとえば、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」。

 社会の構成の最小単位が、家族であると草案は述べている。この考え方は、私見では、近代憲法ではない。近代憲法はまず、個人を尊重して、国家でも、基本的人権を侵害することができないことが中心にある。

 


第3回は京大教授の小関隆先生に来て頂きました。先生はイギリス・アイルランド近現代史のご専門です。ここでは、先生の講義「絶対平和主義と宥和政策」を聞き、印象に残ったところを少しご紹介したい。

①絶対平和主義者 CIifford Allen(1889~1939)

 絶対平和主義者のクリフォード・アレンが第2次世界大戦前、どのように立場を変えていったかを見ていく。アレンの宗教は英国国教会、大学はケンブリッジで、エリートといえる。第1次世界大戦の時、彼は良心的徴兵拒否者であり、条件付き兵役免除に認定されるが、条件を拒否し、収監された経験をもつ。アレンはこの時点では絶対平和主義者だ。しかし、第1次世界大戦の際の自分たちの活動について、彼は「孤独」や「無力」を強調して総括するようになる。

②絶対平和主義から建設的平和主義へ

 第1次大戦の終結のために、連合国とドイツはベルサイユ条約を結び、国際連盟では集団安全保障が追求された。アレン自身は絶対平和主義を放棄し、建設的平和主義を提唱するようになる。「最善」を棚上げしてでも、「次善」を追求しようとの趣旨である。

 

③アレンのズデーテン問題への対応策

 ズデーテン問題は、チェコスロバキアのドイツ系住民が多いズデーテン地方の割譲をドイツが要求したことによって先鋭化した。アレンの解決策はズデーテンのドイツ系住民に自決権を与えることと(実質的にはドイツへの割譲)、チェコスロバキアの「新たな国境線」を国際的に保証すること、この二点である。この策は世界大戦を回避するための次善の策で、言うなら宥和政策である。その後、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの四列強がミュンメンで会談し、アレンの解決策に沿ったかたちで決着する。

 

④ドイツ、プラハ侵攻、チェコスロバキア解体

 アレンはドイツがプラハへ侵攻する直前に亡くなっている。アレン自身は、おそらく、ドイツに対する宥和政策は成功したと思ったまま亡くなったのだろう。しかし、ヒットラーはチェンバレンとの約束を反故にして、プラハへ侵攻した。

 

 ここで問題なのが、宥和政策はどこまで擁護しうるのか、という問いである。この点、当日、様々な意見が出た。ただ、問題になる前に、なんとか動く必要があることは、一致した。いずれにしても、国際的な関係という大きな視点から、個人の意見をどのようにするかまで、討論は行われた。

 

 


 私の講義は、「現在から考える、夏目漱石の私の個人主義②」である。漱石自身が講演の中で第2篇と述べたところから始めた。この講演は二つに分かれていて、前半は漱石がどのようにして個人主義、すなわち自己の立脚地を確立したかを述べ、後半は学習院の生徒に対して社会でどのように実践するのかを、説明している。
①漱石の個人主義とは?

 漱石は個人には個性があり、それを活かすことが幸福であるという。つまり「仕事をして何かに掘りあてるまで進んで行く」ことが必要だと述べる。この考え方は現憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」という文言に該当している。

②漱石の権力と金力についての考え方
 漱石は権力と金力、どちらも悪く使えば、とても危険なものだという。よって、権力と金力をもつ人は、修養を積んだ人格者でなければならないと述べる。人格のないものが権力を用いると、濫用に流れ、金力を使えば、社会の腐敗をもたらす。私はここで、アメリカや日本の現在の政治家やマスコミへの統制などについても述べた。

③漱石の個人主義と自由
 個性を発展させるためには、自由が必要であるが、それと同時に他人の自由を尊重しなければならない。これが漱石の個人主義である。しかし、漱石はこうもいう。「どうしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差支ないくらいの自由は、自分でも把持し、他人にも附与しなくてはなるまいかと考えられます」。

 これは第13条「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」にあたる。

④漱石の個人主義をどう実践するのか。

 党派心がなくて、理非がある主義。つまり、集団の意向だからといって、権力や金力のために盲動しないということ。何かを決めるときも、人によらず、道理を考えて決める主義である。この考え方は、現代においても、非常に理性的で、人格者でなければなかなか実行できないだろう。しかし、目指すところはこの方向だ。

 


 第2回目は、京都大学教授の小山哲さんに来て頂きました。小山さんは西洋史、特にポーランドがご専門です。今回の講義は「今わたしたちにとって、ルネサンスとはーポーランド、ヨーロッパそして現代日本」。私の印象に残ったところをコメントとともに少しご紹介しよう。

 ◎今日の問題としてのルネサンス

 まずは、昨今、日本における人文学への軽視から、かえって人文学の議論が盛んになってきている。12世紀以降、ヨーロッパの大学の基礎的な研究と教育を担ってきたのは、、自由学芸(liberal arts)であり、これを評価したのがイタリア・ルネサンスの人文主義者たちであった。彼らは「単なる人間から人間的な人間になる」ことはをめざした。この「人間的な人間」とは、徳(virtus)をそなえた人間のことで、徳とは、公共的なことにかかわる。

 ◎小山先生自身の「ルネサンス」との出会いについて

 先生が高校生の頃、世界史の先生が丸山眞男の『戦中と戦後の間』(みすず書房)をすすめられ、巻頭論文を読まれ、わくわくされたこと。また、学部生の頃『現代政治の思想と行動』(未来社)を「赤いやつ」(本が赤かったらしい)という言葉で、周りでは認知されていたというお話しは、現在、丸山の本を読んでいる私にとって、面白い逸話でした。他には、大江健三郎『同時代論集』から渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』へと読書が進んだことなど。今の学生のみならず、私たちにも参考になる読書遍歴だと思う。

 ◎文芸共和国

 16世紀初頭の人文主義者のネットワークを「文芸共和国」という。文芸に対する崇拝で結ばれ、戦争と宗教をめぐる暴力の時代に、ヨーロッパの文化的統一を体現し、それを革新していった。その中でヨーロッパの情報のメディアの役割を果たしたのが、人文主義者である。例えばエラスムス。このとき、翻訳が盛んに行われ、その翻訳は読者と文化をふまえた能動的な解釈がなされている。

 ◎分裂と戦乱の時代にいかに対話し続けるか。

 モンテーニュ『エセー』(第3巻第9章)から引く。

「私はあらゆる人々を私の同胞だと思っている。そしてポーランド人もフランス人と同じように抱擁し、国民としての結びつきを人間としての普遍的な共通な結びつきよりも下位におく」。つまり、国民という属性より、人間としての共通した属性を重視していることだと私は理解した。この考え方は現代でも重要である。

 これは、私が講義した漱石の「私の個人主義」にある言葉と呼応している。

「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段が低いもののように見える」。

 


 私の講義は「現在から考える、夏目漱石の私の個人主義」である。少しご紹介しょう。漱石のこの講演は学習院にて行われ、漱石が亡くなる2年前で、小説『こころ』完成後のことである。

 維新以来、日本社会が西欧社会に範をとりながら進むなか、漱石は「西洋化」と文化的伝統との関係を問題にした。漱石にとっては、まず文学において、その問題が集中的に現れた。西洋の批評家が述べたことは、内容がどうであれ、そのまま鵜呑みにされ、称賛されていた。これを「他人本位」とし、漱石自身もそうであった。

 漱石はその後、「文学とは何か」という問いを持ち続け、ロンドン留学に至る。そこで彼は自ら文学を追求する姿勢に気が付く。これを「自己本位」と呼び、自己の立脚地ができ安心と自信をもつようになったと述べている。

 学習院の学生に対しても、自分の本領がわからない中腰のような状態にあるなら、「自分のつるはしで掘り当てる所まで進んで行かなくっては行けないでしょう」とアドバイスしている。言い換えれば、自己の個性の発展は、国家が要求してくる水準では不可能であり、みずから追求しなければならない。

 漱石の個人主義は、自分の個性の発展には自由が必要であるが、他に影響のないようにする義務もともなうものである。また、他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬する主義である。

 私は漱石の個人主義を現在の日本国憲法第13条と同じ精神であると考える。

「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。


 第1回目は、京都大学人文研究所准教授の藤原辰史先生に来て頂きました。講義は「複製技術時代の食と農」。私が感銘を受けた点を少しご紹介しよう。藤原氏の学問に対する姿勢には、人間には限界があるという視点があり、この点は私も共感するところである。

 講義では、リービッヒが植物栄養をNPKに還元し、記号化し、複製することを可能にしたことを学んだ。当時、肉エキス工場では、一日平均400頭の牛から約1500キログラムの肉エキスを抽出していたと。現在、この技術は私達の食生活でも一般化している。例えば、クノールのスープなど、化学的に還元された粉にお湯をかけて食べている。

 食や農には、品種改良、緑の革命、遺伝子組み換えなど様々な分野の学問がかかわっている。ここでもベンヤミンのいう複製技術が大いに使われている。この視点からは、世界、自然の説明能力を向上させ、それに基づく社会設計が可能となる。その時、人間はどう対応したらよいのか、今後の問いである。

 


  私、水口は「日本人の発想様式と民主主義」について話した。まず、シールズの呼びかけ、「民主主義って、何だ?」というデモのコールについて、これは改めて民主主義を問いに掲げたもので、非常に健全な民主的な発想であることを述べた。そして、投票率から、世界の主要都市と京都を比較し、それほど京都は低いわけでもないことを示しつつ、世界的に投票率が低下している傾向を述べて、次の発想様式に移った。

 どのようにして、発想様式を取り出すのか。この日は聖書の創世記と古事記を比較した。神話とは、人間が最初に自分の周りの環境に意味付けする行為でもあり、その土地に住む人の発想が表現されていると仮定しての試みである。

 そうして、私達の発想様式と民主主義の精神とは、うまく折り合いがつくのか。この問いを挙げて時間が来た。

 


 参加者からは、民主主義以外によい制度、考え方はないのか、という質問も出て、もう一度、民主主義を考える機会にもなった。家で本を読んでいるだけでは、出会わない考えに直接、対話できるのは、このイベントのよい点でもある。